消えた楽園 オタモイ遊園地

昭和のはじめ、オタモイ海岸に道内屈指の遊園地があったことは、知らない人も多い。
はかなく散った楽園の物語。

(2005年に「オタルバンザイ」というサイトで公開していた「消えた楽園 オタモイ遊園地」をリメークしました。)

白蛇弁天堂

昭和7年、小樽市内で割烹「蛇の目寿司」を経営していた加藤秋太郎は、
オタモイ海岸に「白蛇弁天堂」を建立。(かなりの弁財天フリークだったらしい)
白蛇弁天堂


弁天閣

さらに、10万坪の敷地を購入する。
弁天閣という食堂を建立。(270平方メートル、130人収容)
弁天閣


白蛇弁天洞なるトンネルを掘り進み、

白蛇弁天洞
白蛇弁天洞


龍宮閣

断崖絶壁に「龍宮閣」なる料亭を建設。(海上から建材を汲み上げたそうな…。)
龍宮閣
その他、演芸場や相撲場などを作り、総工費は27万円となった。
当時にしてはべらぼうな金額だが、すべて私財でまかなったという。


楽園 完成

こうして、「オタモイ遊園地」がオープン。
あまりのスケールの大きさに皆唖然。特に「龍宮閣」は清水寺をもしのぐと絶賛される。
こうして、オタモイ遊園地は北海道有数の観光スポットとなった。
オタモイ遊園地


BLANK

しかし、好況は長くは続かなかった。
戦争の勃発でオタモイ遊園地は営業中止を余儀無くされる。
オタモイ遊園地


まさかのアクシデント

戦争も終結し、世の中も安定してきたので、加藤は「そろそろいいべや」と思い、
遊園地再開へ動きだしたその矢先に、なんと龍宮閣が火災に会う。(昭和27年5月10日)
あんな断崖に消防車が来れるはずもなく、空しく全焼。
火事で焼けおちる龍宮閣


楽園の消滅

加藤は落胆し、再開の夢を果たせないまま小樽から姿を消してしまう。
その後、白蛇弁天堂は崖崩れで崩壊。
その他の施設も次々に姿を消し、昭和52年9月22日、朽ち果てた弁天閣が撤去され、
オタモイ遊園地はこの世から消えた。
朽ち果てた弁天閣


夢の跡

今はわずかな「夢の跡」が、
遊園地以前からある「オタモイ地蔵尊」とともに
ひっそりと残されているのであった。
~終わり~

オタモイ遊園地跡

絵葉書の画像に近いアングルです。

龍宮閣の土台

龍宮閣の土台

龍宮閣の土台

龍宮閣の土台。ベンチが用意されています。

龍宮閣跡地に残るほこら。 今にも崩れそう。

龍宮閣跡地に残るほこら。 今にも崩れそう。

洞穴の中。壁面の白い紋様を加藤は「白蛇の化身」と崇めていたそうです。

洞穴の中。

壁面の白い紋様を加藤は「白蛇の化身」と崇めていたそうです。

壁面の白い紋様を加藤は「白蛇の化身」と崇めていたそうです。

洞穴の中の碑。オタモイ遊園地建設の功労者が 刻まれている。もちろん加藤の名も...。

洞穴の中の碑。オタモイ遊園地建設の功労者が 刻まれている。もちろん加藤の名も…。

今はだだっ広い駐車場ですが、ここには錦鯉の泳ぐ池、数々の遊具、相撲場、園芸場などの遊園施設が整備されていたのです。

今はだだっ広い駐車場ですが、ここには錦鯉の泳ぐ池、数々の遊具、相撲場、園芸場などの遊園施設が整備されていたのです。

オタモイ地蔵尊

オタモイ地蔵尊

オタモイ海岸

ちっちゃな神社

オタモイ地蔵尊

オタモイ地蔵尊

オタモイ地蔵尊

心洗ネコ

※オタモイ地蔵尊御主人のお話と、オタモイ交番より頂いた資料を参考に構成しました。


地名の由来

オタモイ:アイヌ語。オタ(砂浜)+モイ(入り江)
(実際は砂浜より岩場の方が多い気がしますけどね・・・。)
龍宮閣跡の石碑には「御賜恵」という漢字が当てられていました。


<アクセス>

崖崩れのため、現在龍宮閣跡は無断で立ち入ることはできません。ご注意ください。
駐車場までは行けます。

より大きな地図で オタモイ遊園地 を表示